紺子と彦一

「みちにまよってしまったぞ。」紺子は辺りをキョロキョロと見回しながらそう言った。手には自分で捕った兎の死体をつかんでいる。直宮学校で保明に見せたあと、家に持って帰る途次であった。しかしいつの間にか道に迷ってしまったのである。
 辺りは一面田んぼしか見えない。収穫を控えた黄金色の稲穂が、秋風に吹かれてゆるゆると揺れていた。
「ここはどこだ。」てくてくと田んぼ道を歩いていく。金髪の紺子はそれだけで目立ったが、それ以上に狐の耳と尻尾は人々の注目を集めた。ましてやここは田園地帯である。
「お稲荷さまじゃ。」
「お稲荷さまじゃ。」
 などと言って百姓たちがわらわらと集まってくる。ついには紺子は百姓に囲まれてしまった。
「わ、わ、なんだおまえら。」
「お稲荷さまじゃ。」
「ありがたや。」
 百姓たちは手を合わせ、ひざまづき、紺子を拝んでいる。中には「なんまんだぶなんまんだぶ…。」と唱えている者もいる。神も仏も一緒なのだ。
 稲荷神は穀物の神であり田の神である。その正体は宇迦御魂(うかのみたま)という女神であり、京都の伏見稲荷大社が有名だ。
 正確に言うと狐はあくまでお稲荷さまの使いであり、お稲荷さまそのものではない。だが民間においては同一視されて一緒くたになっていることが多かった。害獣であるネズミを食ってくれる狐は百姓たちにとっては神道以前から神聖な存在であった。「狐が人を化かす」などというのは仏教の影響であり、それまで狐は人間の、取り分け百姓の良き友人だったのである。
「これを持っていってくだせえ。」と百姓たちは紺子に団子だの餅だの芋だの油揚げだのを持たせる。ついには両手に持ちきれなくなったので兎は百姓にくれてやり、頭の上にまで餅を乗せる有り様であった。
「ありがたやありがたや。」そう言って百姓たちは田んぼへ戻って行った。
「こんなものもらってもな…おれはいえにかえりたいんだ。」串団子をもぐもぐと頬張りながら紺子は再び歩き出した。
 と、行く手に溜め池が見えてきた。そのほとりに男が一人立っている。紺子はそちらへ歩み寄って行った。
「なにしてんだ?」と紺子が呼び掛けると男は振り返り、
「ああ…ここで釣りをしようと思ってたんだども、釣竿がねくてな。」
「つりざおもないのにつりしようとしてたのか!おまえばかだな!」
「……。」男は紺子を値踏みするように見て、「おめさんのその尻尾だら釣れるど。」と言った。
「おれのしっぽ?」紺子は身をひねり、自分の尻尾を見た。
「んだ。この池だらフナが釣れっど。」
「フナつったらご主人よろこぶか。」
「え?ああ、喜ぶべ。」
「そうか、よし!おれはフナをつるぞ!どうすればいいんだ?」
「それ邪魔だべ。持っててやる。」と男は紺子の手荷物を受け取った。
「こうしてな、しゃがむんだ。」と男は池の方に尻を向けてしゃがみこんだ。紺子も真似をして同じことをする。
「そしたら尻尾ば池ん中さ入れるんだ。」
「こうか。」言われるままに池の中へ尻尾を入れた。
「ひっ!」思わず悲鳴が漏れた。秋口の池の水は冷たかった。「つめたい…しびれる…。」
「我慢だ我慢。ご主人にフナ釣ってやるんだろ。」
「おう…がまんがまん…。」こうして紺子は身を切るような水の冷たさに目をつぶって耐え、魚が釣れるのをひたすら待った。そうしてしばらく経ったころ、
「お稲荷さま、なにやってるだ。」と声がかかった。目を開けてみると百姓たちの何人かが心配そうに紺子をのぞき込んでいた。
「おれは…フナを…ご主人に…。」この頃には紺子はすっかり体が冷え切っていた。「ハッチュン!」などとくしゃみをすれば洟が一筋たらり。
「フナなんてこの池にいねえだよ。」と百姓が言う。「いんのは…」と言いかけたとき、
「ギャーッ!」けたたましい悲鳴を上げて紺子が飛び上がった。尻尾の先を蟹がハサミで挟んでいる。紺子は涙目になりながら尻尾をばたばたと地面に叩きつけて蟹を落とそうとした。何度かそうすると蟹は離れていき、そのままするすると池へ戻っていった。
「いんのは蟹だけだ」と百姓が笑った。
「お稲荷さま、彦一に騙されたんだな」と別の百姓が言う。
「ひこいち…?」
「んだ。あれはとんちが利く男でな。よんぐおらだちも騙されるだ。」
「……。」ヒリヒリと痛む尻尾にふーふーと息を吹きかける紺子はここでようやく、彦一に団子や餅をとられたことに気がついた。

「おれはあたまにきたぞ!」紺子はプリプリと怒りながらたんぼ道を歩いていた。「ひこいちとかいうのこんどみかけたらとっちめてやる!」
 するとどうであろう。前方に見えてきた畑、そこにその彦一がいるではないか。彦一は鍬で畑を耕している。紺子は咄嗟に木の陰に隠れてそれを見ていた。
(ここがあいつのはたけなのか。)
 すると彦一は鍬の手を休め、休憩でもとるのかどこかへと行ってしまった。ここぞとばかりに紺子は木陰から躍り出し、道ばたに落ちている石を拾い出した。紺子の手に収まるような小さいのから、両手で抱えなければ持てないものまで、うんうんと唸りながら紺子はそれらを彦一の畑に投げ入れた。見る見るうちに彦一の畑は石だらけになってしまった。やがて彦一が戻ってくるのが見えたので紺子は再び木陰に隠れた。畑を見た彦一は「なんじゃ!」と驚いた。
「けしし。いいきみだ。」と紺子は笑った。木の幹からはみ出た尻尾が嬉しそうに揺れる。だが彦一が、
「なんじゃ石か。これはありがたい。」などと言うので紺子は驚いて「ええっ!」と声を上げた。
 彦一が続けて「これが馬の糞じゃったら大変なことじゃった。石で良かった良かった。」と独り言にしては大きな声で言った。
「ぐぬぬ…。」悔しそうな顔でそれを見る紺子。
「おっと、用事を思い出したわい。しばらくここには戻ってこれんのう。」と彦一はやたらと大きな声で言うと、またどこかへ消えて行った。
「くっそー、いしじゃだめなのか。うまのくそだな、よし。」と紺子は意気込んで飛び出した。彦一の畑からまたうんうん唸りながら石を回収し、今度は百姓が飼っている馬を探しては馬糞を集めて回った。
「くっせー!」などと顔をしかめつつも、馬糞を彦一の畑に撒いていく。そうして畑一面に糞を撒き終えると紺子は満足そうな顔をして、
「よし!これでいいな!」と笑った。
 やがて彦一が戻ってきたのでまた木陰に隠れる。
 畑が馬の糞で満たされているのを見た彦一は「ああ困った!馬の糞だらけでねえか!これでは作物も育たねえ!困った困った!」などと言いながら嬉しそうに畑を耕しはじめた。
 それを見た紺子は、
「やったぜ!ひこいちめ、ざまあみろ!」と会心の笑みを漏らして飛び跳ねて行った。

 その後家に戻った紺子は事の次第を保明に言って聞かせた。
「それは良いことをしたね。」と保明はあるかないかの微笑を浮かべて言った。
「いいこと…?」紺子は不思議そうに保明を見上げる。
「馬の糞はいい肥やしになるんだよ。」
「こやし…。」
「そう。作物がよく育つようになるんだ。」
「……。」紺子はしばし思案気な顔をしていたが、やがて顔を上げると、
「またおれはだまされたのか!」と怒りの表情を見せた。
 それを見て保明は微笑む。
「くそー…。」紺子は力尽きたようにへなりと倒れ込むと、「にんげんはおそろしいな…。」と呟いた。
「私も恐ろしいかい。」と保明は紺子の体を抱え上げ、自らの膝の上に乗せた。「私も人間だよ。」
「ご主人はご主人だからおそろしくないぞ!」と紺子は真面目な顔で言った。
「そうか…。」保明は酒で満たされた盃を口許に持って行った。
 空には朧月がぼんやりと浮かび、ゆるやかな明かりをほろほろと流し続けていた。

post 2019.8.25